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師は私に「柳は緑 花は紅」という言葉を贈ってくださいました。あるがままに生きる。この言葉を胸に人生精進します。
福島第一原子力発電所復旧作業視察
先日、福島第一原子力発電所へ視察に行った記事がネット配信となりました。
記事を書いたのは、シドニーパラリンピックで銅メダルを獲得したとき、私たちをシドニー大会の2年前から追っかけ取材をしていた共同通信の高橋さんです。高橋さんとはその後もお会いする機会があり、今回の視察にもご一緒することになりました。画像は私の友人が撮影し、いただいた個人所有の物です。

https://this.kiji.is/374471408253682785?c=39546741839462401

以下は、記事とは別の個人の感想です。
東日本大震災以降「FUKUSHIMA」はある意味世界の中心となった「福島第一原子力発電所」元ラジオ福島アナウンサーで、現在はフリーアナウンサーの大和田新さんに「原発に行かないか?」と声を掛けられた。普段の生活を送っている中で近づくことはない場所。
 私の中では原発の復旧現場は戦場の印象に等しい。車いすでは到底行くところではないし、行こうと思い付くことも考えたこともなかった。復旧の最中の場所でやれスロープがないだの、多目的トイレがないだの言うことも考えてもいない。そのため第一原発に行こうという考えなど皆無だった。「一体、なにが目的なんだろう?」と正直思った。ただ、同時に7年前を思い出していた。2011年12月私はある団体と警戒区域の中におり線量計が振り切れるほどの地域で避難者からの依頼を受け救済活動をしていた。あれから7年、警戒区域はどうなっているのだろうかと言う想いがよぎった。この事故のせいで多くの生命や生活が奪われ、未だに多くの人が苦しんでいること。7年前は勢いでボランティアをしていたが、正直なことを言うと震災後様々な支援をしてきたが、ここ数年は自分にできることはもうないと考えていた。

大和田アナウンサーはマイクを通して広く伝えることで震災と津波と原発事故について7年経っても精力的に活動している。忘れたいけれど忘れられない光景を振り返り、自分がもしいま支援ができるとしたら?それは一体なにか判断しようと言う思いが生まれ「いきます」と返事をした。
 
 居住制限区域の手前は復旧が進み、震災前よりもインフラの整備が進んでいた。本来であれば常磐道の整備も震災復旧・復興のためではなく、浜通りの人たちが南北に行き来しやすくし、産業や流通の拡大を図り、豊かな生活を送るために活用されるべきものであった。それが、震災後急ピッチで建設が進められた高速道路は、今や災害復旧に役立てられている。毎朝通勤途中で聴くラジオからの渋滞情報では、常磐道いわき広野インターで渋滞が発生し、原発の復旧に携る人が多いことをうかがい知ることができた。また、事故で通行止めになることもしばしばあり、被災地の工事関係者の気性の荒い運転も感じていた。被災地の事故と聴くたびに、数年前の女子学生が復興車輌にはねられ命を失ったことを思い出す。その女子学生のお母さんも交通事故で命を奪われ、彼女は交通安全をテーマとした作文コンクールで入賞するなど、交通事故防止の啓発に努めていた。「原発事故さえなかったら」と言う言葉を避難した人達からよく聞いた。そんな中、同じように原発事故さえなかったら、入りこむはずのないものが入りこんだことで、こうした事故や事件なども起きている現実を見聞きするたび、平和な福島が侵されて行く錯覚に陥ったこともある。原発事故で支援を受け人の温かさと感謝の念を感じる一方で、多くの負も入って来たと言ういろんな想いがよぎる。

 以前の警戒区域は居住制限区域という名前になっている。その居住制限区域に入ってすぐ、東電の牧場で飼われていたダチョウが無人の店舗のガラスに写ったじぶんの姿に求愛をしていたところが目に入った。この先は牛が集団でむかって来て焦った場所、ここでは牛が轢かれて死んでいた、ここの田んぼには津波の海水がもどる場所を失い、時に田んぼは風に煽られ海のように波立っていた。今にも生命が尽きるその瞬間を傍らで待ち侘びるカラス、栄養失調で後脚が伸び切っても必死で逃げる犬、国道6号を北上するにつれ、ここにはとても書けない悲惨な光景を目にした7年前の記憶が次々と甦る。途中、富岡養護学校や障害者の入所施設の看板を見て、あの日は卒業式だったこと。その後、障がい者の入所施設の職員は利用者と共に困難な避難を強いられたこと、当初は別の場所にあった同法人の施設に避難した、しかし、そこも避難することになった。避難所を転々とし、行き着いた先は田村郡だった。障がい者スポーツ指導者の連絡網で避難所でないため物質がないことなどがわかり、豊富な物質がある避難所から避難している施設まで物質を運んだ。皆不安そうな顔だった。事故前はソフトボールやフライングディスクなどを楽しんでいた笑顔が思い出された。そして、何より衝撃だったのは7年ぶりの帰宅困難者区域は建物が被災したままの姿だったことだ。「そうだ震災、原発事故はまだ続いているんだ」と思った。

 時代は東京2020の開催を2年後に控え、この機会に本務の障がい者スポーツの振興をしなければならないと言う思いと、国内外多くの方々が被災地を支援してくださるようになり私のすべきことはもうなくなったと思いから、こうした現実がまだ続いていると言うことを忘れようとしていたのだと思った。
 原発に入るまでの詳細なことはセキュリティの関係で差し控えるが、労働環境はだいぶ改善されたとの説明を受けたし、事故を起こした原子力発電所事態の復旧もかなり進んでいた。ただ、同時に一度壊れてしまったものや失ったものは二度と全く同じには戻らないと言うことも痛感した。だからと言って諦めて何もしないと言うことではなく、人は知能があり、思考し、感じ、挑戦する。何度も何度も。時には失敗を繰り返しながら。元に戻そうと言う強い意志、責任感のもとにつき動かす人の不屈の精神も垣間見た。それが障害を負ったいろんな人や自分の人生と重なった。

バスの中で待っている間、詳しい復旧の状況をお聞きした。その中で震災後私たちは電気を贅沢に使う暮しをしているのか気になりきいてみた。震災前よりは電力会社供給が落ちているとの回答だった。しかし、未だに東京電力の火力発電所の電気は首都圏へ送られていると聞き驚いた。私は東京電力で発電している電気は原子力発電所事故で使用されているとばかり思っていたからだ。原子力発電所事故の復旧で使用している電気は東北電力から供給されているとのことだった。 
 今回、現場を見て、話を聞き、物理的な復旧は確実に進んでいることも実感した。あとはこの事故で傷ついた人達の心の復興をどうするのか・・・。
このような深刻な事態、時が続く最中に自分のできることはなんなのか?それは福島人として、福島の今を正しく伝えることなのだろうと思った。大和田さんが多くの人を原発の復旧現場に人を入れるのは正しきことを正しく伝えて欲しいのだろうという思いを感じとった。
人の手伝いを必要とする状況であるにも関わらず、こうした機会を提供していただいたこと関係者の皆様に誠に感謝したい。

 最後に、少し話しは逸れるかもしれないが、震災と原発事故後、気になる事がある。それは復旧や復興、東京2020オリンピック・パラリンピックが復興五輪と位置づけられて多くの人が頑張って福島県を盛り上げようと勢いづいている中、日常生活の中でふと感じる20年以上前にタイムスリップしたかのような不便さ、障がいに対する差別的な感覚に見舞われることがある。もしも、その感覚が間違いでないのであれば、震災後私たちは視野が狭くなってないだろうか。自分以外の周りが見えなくてなっているのではないか?と言うことである。猪突猛進。つき進む中、足下の野の草花を踏み散らし、弱き者の声が聞こえなくなっていないか。町を歩けば、歩道はガタガタ、車いすの前輪が道路の溝に引っかかる。アスリートだった私でさえ車椅子で行きにくい。ようやくお目当ての飲食店についても車いす一人での利用はできないと何軒も入店拒否をされた。今年に入ってすでに5件だ。理由が車椅子はほかの客の迷惑になると言うことだった。今までにない経験だ。福島市は特に街中で車いすユーザーを見ない。歩道のブロックは曲り外れ、ベビーカーに乗った子どもにも衝撃は直に伝わっているだろう。
 こうしたことは震災や原発事故とは関係ないと思うかもしれない。でも、私はそうは思わない。震災前と震災後何を得て、何を失ったかもう一度考えて欲しいと思う。
 点字ブロックや車いすマークの駐車場もとりあえず設置しておけばいい。使わないなら、空いているなら停めてしまえ、そんな今の福島が果して正常と言えるのか。困った人が助けを求めた時、隣人を助けた福島魂を、震災前、震災直後にできていた思い遣りの気持ちを思い出し、もう一度考えて欲しい。一度失ったものは戻すことは難しい。しかし、容易に戻らないからこそしっかりとした新しいものを生み出し、より良い状態を生みだす事ができる。それが今なのかと感じている。
 随分とかけ離れている様におもうかもしれないが、今回、原子力発電所の復旧した状況を見て感じた一つの想いを感想として載せたいと思います。
そして、この感想は大和田HAにも別途お送りしております。
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プロフ
HN:
Mash
性別:
女性
職業:
カリスマオフィサー
趣味:
photo(Canon EOS user)
自己紹介:
出身・在住 福島県
幼少はオルガン・書道などなど文化系で体も弱く運動が苦手でした。小学3年の担任の先生にテニス・卓球などいろ②教えてもらいスポーツ少女へ。小4でバスケに出会い高校までバスケをしていました。
平成2年6月車に飛ばされ車椅子になりましたが、車椅子になってもバスケットボールができることを知り競技の道へ。
1992年車いすバスケットボールを始めました。翌年合宿に招集され94年世界選手権デビュー。96年Atlantaパラリンピックで世界のレベルを知る。
1999年三上監督率いる女子車椅子バスケットボールチームは福島大学人類文化白石先生のメンタルトレーニング指導を受け、2000年シドニーパラリンピックでは目標どおりの銅メダルを獲得。
※白石豊先生は、福島大学教授。メンタルトレーニングの第一人者。ゾーン、ゴールデンエイジなどの言葉を生んだ方です。門下生には、日本人女性初のWNBAプレイヤー萩原美樹子氏、バンクバーオリンピックスピードスケートパシュート銀メダリスト田畑真紀選手、元日本ハムファイターズコーチ白井一幸氏、FIBAワールドカップ南アフリカ大会日本代表岡田武史監督、レッドブルエアレース年間総合チャンピオン室屋義秀選手など著名な方々を多数みてらっしゃいます。

経歴:
1992年3月車椅子バスケットボールを見学、以後半年以上ただ見学
1992年9月福島県身体障害者スポーツ協会主催の車椅バスケットボール教室にて三村一郎先生(長野県障害者スポーツ協会理事長)と出会い選手の道へ
1993年1月JWBF選手登録
1994年ゴールドカップストークマンデビル大会代表デビュー(7位)
1996年アトランタパラリンピック出場(5位)
1998年ゴールドカップシドニー(4位)
2000年シドニーパラリンピック(銅メダル)
2002年ゴールドカップ北九州(4位)
2004年アテネパラリンピック(5位)
2005年腰椎の疲労骨折により代表引退
2008年北京パラリンピック(4位)代表復帰
2010年ゴールドカップ バーミンガム代表(7位)
2011年ロンドンパラリンピックAOZ予選(3位)
2015年リオパラAOZ予選(3位)
2015年現役引退
職業:団体職員
(公財)福島県障がい者スポーツ協会

役職:
(一社)日本パラリンピアンズ協会理事
(一社)日本車いすバスケットボール連盟役員
福島県障がい者スポーツ指導者協議会事務局
福島県障がい者スポーツ支援ネットワーク理事
ふくしまchallenged sports club代表
趣味:美味しいものを食べ歩き、カメラ(Canon 7D user)
一番好きな曲:What A wonderful world.
家族:チャアコ,マーレ,バディ(dog's)メソ,ゴマ,アテ,モコ,アイナ,ニャークロ,グランディス,アバレンボウ,ギントキ,ロング,アメニ,ジンジャー,モウ(cat's),ゴンボ、クロ、シロクロ

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松本紀生著書
アラスカで出会った写真家松本さん、マッキンリーでカマクラ掘ってオーロラを撮り続けています。
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