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「真我開眼、修せざるは衣裏の宝珠」誰もが自分の中に宝を持っている。師は私に「柳は緑 花は紅」という言葉を贈ってくださいました。この言葉を胸に人生精進します。
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陸前高田市へ
陸前高田市へ行ってまいりました。




「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」(森信三「心魂にひびく言葉」)


福島大学白石豊教授、そして脇元先生が教えてくださった言葉だ。



この言葉が頭を過った旅だった。



 ここ数年、若干、人疲れしていたこともあり、久しぶりに「出会いが楽しい」この人とお会いできてよかった。と心の底から思える一日であった。




 博報堂の香中さんと言う方から一本の電話があったのは8月の初旬


 陸前高田市へは前回のブログで書いたように復興計画の一部分についてディスカッションを行うため


 震災後初めての訪問、震災が起こる1年前、リアス式海岸を写真を撮りながら下る旅をした。



 あの美しかった風景が地元の福島県の沿岸部や宮城県山元町のように変わり果てた姿を見るのが怖かったのもあり、足を運ぶ気持ちにはなれなかった。



 前日まで38度あった体温もようやく下火となり、当初の予定をすべて立て直して、当日の朝4時に起床し陸前高田市へと向かった。


 4時間半の旅、別に病んでいたわけではないが、夏バテ肺炎あがりにはきついかもしれないと思い「うこんの力」が旅の友と相成った。
 


 東北自動車道を北上し、右手に朝日が顔を出そうと雲の上部が光りだし、太陽が顔を出したときはまるでダルマのような太陽となっていた。
 珍しい現象になにか特別なことが起こる予感ではないが、なんとなくワクワクした。


 
 一関をインターを降りておよそ2時間、渓谷を越え、まるで田村郡船引を通って太平洋に行く道に似た景色に地元と錯覚する場面もしばしばあった。



 陸前高田市に続くR343が終わり。右手が海、ふと見たら千切れた鉄橋があった。
右折し左手に修復中の日本家屋、右手にプレハブやバスで営業しているほか弁屋が目に入った。



 津波の被災地はいつのまにか被害を受けた所に入っているということがあるが、ここもまたそうだった。



 おそらく避難できた人の映像は左手の山だったのだろう、被災後初めて来たのに見たことのある景色がそこに広がっていた。



 継ぎはぎの道路を行くと、突然きれいなバイパスに出た。登り切った右手が陸前高田市の仮庁舎。場所を確認した後に香中さんたちとの待ち合わせというか、香中さんが「りくかふぇ」という地元の歯医者さんの奥様方が集まり運営しているというカフェを探した。
カフェを運営しているユニークな方がいらっしゃるのでぜひお会いいただければとのことだった。



「庁舎」と「りくかふぇ」の場所を確認し、被害を受けた旧庁舎へ焼香へ向かった。



運命を分けた旧庁舎と市民会館
1m程度だろうか、少しだけ高い位置にあった庁舎は屋上で助かった人がいた。
ほんとうにぎりぎり生死を分けたボーダーラインはまったくもって予測は不可能であったと思う。
 
(陸前高田市庁舎)




(市民会館)




(市民体育館)




(堤防近くの橋げた)



まさか庁舎の屋上4階部分、体育館、博物館、市民会館の天井まで水が上がるとは誰も思ってなかったはずだ。


そう、ここの津波は福島県とは比較にならないほど高い波が襲ったというのが、建物惨状を見て感じ取れた。



津波の被害を見たのは初めてではない、しかし、陸前高田の津波の爪痕は他の地域よりも恐怖心が湧きあがった。


被害に遭われた方々の恐ろしかった思いがシンクロし、涙があふれてきた。
静かに手を合わせてご冥福をお祈り申し上げました。



瓦礫は予想以上に多く、あとで聞いたらこれでも少なくなったほうだとのことだった。
放射線や環境への影響を懸念して瓦礫受け入れを拒否する意見が相次いだ。
ここは福一からはだいぶ距離もある、当時の風向きも考えて問題はないだろうに。
行き場のない瓦礫はこれからどうなるのだろうか。



 さて、待ち合わせの「りくかふぇ」に行くとすでに香中さんら博報堂の方々はテラスでくつろいでいた。



 私が幼かった頃に通っていた学童保育の先生に大変よく似た「吉田和子」さんを紹介していただいた。






一端、りくかふぇを後にし、仮設庁舎へ向かい、陸前高田副市長はじめ、教育委員会、障害福祉担当、担当職員、博報堂の方々と質問に対しお応えさせていただきました。



終了後、久保田副市長からある物を見せていただきました。それがこちら

よっしゃん監督とメンバーのサイン色紙



成田山新勝寺と陸前高田市は縁があるとのことで、必勝祈願の際に陸前高田市へと送られたものだそうです。大切に保管してくださっていました。
いつか、陸前高田で強化合宿ができたらよいですよね。



ロンドンの男子バスケ部よ、ロンドンのコートで散る勢いで挑めよ。
どことやっても相手が格上なんだから、恐れるものもないはずだ。
強い思いだけが奇跡を起こす。
君らの目指す世界ベスト4はいままでの歴史上を考えても奇跡と言っても過言ではない。
でも、やれないことではない。はずだ、同じ人間だからな



そして、わざわざ戸羽市長をご紹介いただきました。ロンドンへ思いよ届け!と




ああ、昼休みが終わってしまった。。。陸前高田の出来事はまだまだ続く
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プロフ
HN:
Meg3
性別:
女性
職業:
カリスマオフィサー
趣味:
photo(Canon EOS user)
自己紹介:
出身・在住 福島県
幼少はオルガン・書道・バレエと文化系で体も弱く運動が苦手でした。小学3年で担任の先生にテニス・卓球などいろ②教えてもらいスポーツ少女へ。小4でバスケに出会い高校までバスケをしていました。
平成2年6月車に飛ばされ車椅子になりましたが、車椅子になってもバスケットボールができることを知り、いまだ現役で選手やっております(*^^)v

1999年三上監督率いる女子車椅子バスケットボールチームは福島大学人類文化白石先生のメンタルトレーニング指導を受け、2000年シドニーパラリンピックでは目標どおりの銅メダルを獲得しました。
※白石豊先生は、福島大学教授。メンタルトレーニングの第一人者。ゾーン、ゴールデンエイジなどの言葉を生んだ方です。門下生には、日本人女性初のWNBAプレイヤー萩原美樹子氏、バンクバーオリンピックスピードスケートパシュート銀メダリスト田畑真紀選手、元日本ハムファイターズコーチ白井一幸氏、FIBAワールドカップ南アフリカ大会日本代表岡田武史監督など、著名な方々を多数みてらっしゃいます。

経歴:
1992年3月車椅子バスケットボールを見学、以後半年以上ただ見学。
1992年9月福島県身体障害者スポーツ協会主催の車椅バスケットボール教室にて三村一郎先生(現長野県障害者スポーツ協会理事長)と出会い選手の道へ
1993年1月JWBF選手登録
1994年ゴールドカップストークマンデビル大会代表デビュー(7位)
1996年アトランタパラリンピック出場(5位)
1998年ゴールドカップシドニー(4位)
2000年シドニーパラリンピック(銅メダル)
2002年ゴールドカップ北九州(4位)
2004年アテネパラリンピック(5位)
2005年腰椎の疲労骨折により代表引退
2008年北京パラリンピック(4位)代表復帰
2010 ゴールドカップ バーミンガム代表(7位)
2011 ロンドンパラリンピックAOZ予選(3位)
2015 リオパラAOZ予選(3位)
2015 現役引退
職業:団体職員
(公財)福島県障がい者スポーツ協会

役職:
(一社)日本パラリンピアンズ協会理事
福島県障がい者スポーツ指導者協議会事務局
福島県障がい者スポーツ支援ネットワーク理事
ふくしまchallenged sports club代表
特技:車椅子バスケットボール

趣味:美味しいものを食べ歩き、カメラ(Canon 7D user)

研究:

著書:

一番好きな曲:What A wonderful world.

家族:チャアコ,マーレ,バディ(dog's)メソ,ゴマ,アテ,モコ,アイナ,ニャークロ,グランディス,アバレンボウ,ギントキ,ロング,アメニ,ジンジャー,モウ(cat's)カーコfamily&チュンチュコチュンfamily(bird's)

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松本紀生著書
アラスカで出会った写真家松本さん、マッキンリーでカマクラ掘ってオーロラを撮り続けています。
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