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師は私に「柳は緑 花は紅」という言葉を贈ってくださいました。あるがままに生きる。この言葉を胸に人生精進します。
あづま球場の記事について

読売新聞福島版にあづま球場のバリアフリーの記事が掲載されました。

誤解なきよう補足をします。記事を見ると「障がい者のための」カラーが濃くなってしまっているので。

これは、単に五輪の地方会場がバリアフリーでないことへの不満を訴えているわけではないのです。遅れているのは事実ですが、そこは特に触れていなくて

この取材は夏の終わり8月に行ったもので、現在とは多少状況が異なっていますが少し補足したいと思います。

また、取材した現場の記者と私たちの考えも限られた文章の中では伝わり切れないこともありますので。

このあづま球場でお伝えしたかったのは、2つあって、1つは東洋大学教授の川内美彦先生がおっしゃるように、障がいのある人だけの目線で観る「バリアフリー」だけではなく、障がいのない人の目線、両方の立場に立って「ユニバーサル」の観点で見ないといけないのでは?と考えています。急速に進む高齢化による高齢者・障がいまではいかないけれど「加齢による足腰に不安な方」、「整形的な疾患をもつ方」への配慮、「子供連れの家族」、「増える大型ベビーカーへの対応」等をする必要があること。そして、この大会開催を一過性のものとするのではなく、五輪大会終了後も甲子園の地区予選やプロ野球の試合など多くの人が球場に足を運びやすくする観る文化を定着させる機会にしたいこと。いわゆるレガシーの部分。その観戦者は多様な人がいて、見た目ではわからない疾患や障がい者もたくさんいて、それぞれが観戦体験の平等を実現できることが大切かと。

6月の日米対抗ソフトボール大会で昇降機が止まった原因は、高齢者が足がしんどいので階段をのぼることが大変だから、「これ(昇降機)があるなら使用させてほしい」ということで使用したことで、想定してされた以上の稼動をしたために止まってしまった現状があります。今後はバッテリー駆動ではなく電気式になるとのことですが、そういうことではないのです。歩行していても階段がしんどい人はたくさんいるのです。そこを理解してほしい。もっと言えば、昇降機5台設置後の年間保守点検の維持費と、エレベーター一基の保守点検代金がさして変わらないこと。その後の運用で5台の昇降機が年間にどれだけ稼動するのかを考えた時に、誰もがいつでも利用できるエレベーターである方が望ましいのではないか。
大会終了後、車いすの人があまり使わなくなり、こんなにたくさん設置して結局使わないじゃないか!とならないように、誰もが使用できる仕様、考えを持っていることが大切だと思います。

 もう一つは、県の担当課・関係課がこうした平成7年以前よりユニバーサルの視点でまちづくりをしてきた中、ここにきてなぜ特定の人しか使用できない「昇降機設置増設なのか?」と疑問に思ったこと。昇降機自体は車いすユーザーにとっては簡易的な措置として便利ではあるけれど、独力で動ける車いすユーザーや介助者(家族、友人、恋人、ヘルパーなど)がいる容易に動ける人たちにとっては、エレベーターや昇降機であれば、自由に自分の意思で動けるものを、昇降機については「係りの人を呼び」、「動かしてもらい」、「人の流れを止める人」、「昇降機を操作する人」など多くの人の手を借りることになります。
 車いすユーザーが障がいのあることを痛感するときというのは、「できていたことができなくなった」、「自分でできるのにできない状況に陥る」ことです。
 これは「障がいがあることで思い知らされる事態」を招くことになる。自立に向けて訓練してきた中で、こうした状況に遭遇するのはナンセンスだと考えています。

 バリアフリーという観点から配慮すべきところは配慮し、ただしそこだけに傾倒するのではなく、ユニバーサルの観点から「誰もが使いやすく、住みやすい社会」両者の視点から行政がそうした考えを持たないと、あづま球場ひとつのことではありますが、まちづくりに大きな影響を及ぼす、「よく考えて」と伝えたかった次第です。


10/15 読売新聞福島版より
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福島市ライフ
福島市民となり二カ月経過。
はじめの一カ月は飲食店の車いす入店拒否やら警察署マナー問題やらで闘い続けヘルペスや瞼ピクピクに悩まされておりました。
街中を車いすで歩くこと、町内会に入ったり、隣近所、地域の多くの人とコミュニケーションを持つことでだいぶ慣れてもきました。
まだまだ物理的には不便だけど。

そして見えてきた福島市。福島市は良くも悪くも昭和のかほりがする街だと。
男性は亭主関白のような頑固さを持ち、女性は三歩下がって傅くタイプとウーマンリブ?並のパワー全開の元気なご婦人のふた通りいらして、でもどちらも話好きで面倒見がいい。

街中も昭和の情緒ある古いお店がたくさんあり、実際に創業50年はたくさんあり、長い歴史を持つお店は珍しくない。
北ウラ商店街、レンガ通り、文化通り、昔ながらの魚屋、肉屋、手作り豆腐屋や味噌屋、黒糖羊羹が絶品の和菓子屋、釜焚き甘納豆屋など小売店がいい感じ。

先週はパセオ通りに足を運ぶことが多く、プラモデル屋、楽器店、草履屋、呉服屋、いろいろ見れて街中を歩くのが楽しい。

ただ、楽しく街中を歩きつつも併せて淋しい状況も目にした。

この二カ月で、凄い美味しい‼️と思い毎日の食卓に欠かせなかった大文字納豆屋が廃業。。
そして、創業50年の宝飾店のおじいちゃん、川俣セト店など多くの商店が後継者問題や原発に関連して売り上げが伸びず閉店した。

あるお店の人が言った。今は、食器を買うのもインターネットや百均で買うでしょ?だから本物に触れずに育つ子供たちが増えていて情緒が育たないの。日本の伝統の本質を知らずに育つから、物の価値がわからない大人になるの。
個人のお店はね、いまは売れないし、休みもない、自由もない、お店を維持するのも大変。もう私も歳をとったから、私が死んでから品物を処分するのは残された人に負担をかけるから、片付けできるうちにもう辞めて自分で処分するの。

お店に来た外国からのお客様は、ここは宝の山ね‼️もったいないわね。と惜しんでいた。

私はそのなかから、本漆器の茶托、お椀、菓子器、ガラス製品はシャンパングラスなどを購入してきた。
日本の伝統品が捨てられるのはしのびなく、大事に使おうと。全て地方の有名な良い品だった。
良い品は持つし、思いが入り生涯大切に使うと思う。

福島市を支えてきた商店街、また空き店舗が増えた。

福島の街中は古き良き昭和の雰囲気を残したまま開発が進めば良いのに。

商業施設の雰囲気なんてどの街も一緒。
情緒なき商業施設は古くなればまた錆びれる。

また来たくなるような統一感のある情緒ある街になってほしい。
JR在来線の旅
所用のためJR福島駅から郡山乗り換えで水郡線に乗って出かけて来ました。
郡山駅の在来線には各ホームにエレベーターが設置され本線、東線、西線、水郡線と乗り降りにはスロープ対応がされるようになりました。諸先輩方が要望してから30年が経ちました。

県内JR各線の駅ホームは降りてから線路を渡るタイプと島形式のブリッジタイプと2つの駅形状があります。
各駅全てが便利になわけではありませんし、夜は無人駅となるところもありますが、なんとか利用できそうです。

水郡線は車内トイレもユニバーサルで広めにできています。記念に入っておきました。

さて、会合のために利用した駅はブリッジタイプの線路を渡る形式。日中は駅員が対応できるが夜は無人となるとのこと。最終で帰るため帰るときは無人駅かと思いながらもなんとかなるべと思い駅を出た。

会合が終わり、駅に走って向かう。駅の改札を過ぎ階段をケツ登りをしようとしていたら、20代前半と見られる若者4人が『お手伝いします!』と声をかけてくれた。

『重くて申し訳ない』と一旦恐縮するものの大丈夫です!と頼もしい返答。
正直、20段以上あり、最終電車が来るまで10分を切っていたので焦っていたのもあり甘えることに。

若者たちのおかげで最終の水郡線に間に合い、郡山駅から乗り換えて新幹線に無事乗ることができた。
若者たちはというと郡山駅から改札を出て夜の街に消えて行った。

また、行きの電車、会合の場所で一緒だった郡山で開業しているDr.ファミリーと帰りの電車も一緒となり、電車内で『写楽』を一献ご馳走になる。電車ならではだなと^_^

産業と経済の街郡山の若者たち。多様な人たちと普段から接することで自然な振る舞いができる。
幼少から育っていく環境の中で多様性を認めるような教育と風土があるのはとても大切だなと実感しました。

なので、これをご覧になっている車いすユーザーのみなさん、どんどん県内在来線の旅をしましょう。きっとなんとかなります。

ただし、確認のためのJRからの電話はものすごい着信履歴が入りますが
福島第一原子力発電所復旧作業視察
先日、福島第一原子力発電所へ視察に行った記事がネット配信となりました。
記事を書いたのは、シドニーパラリンピックで銅メダルを獲得したとき、私たちをシドニー大会の2年前から追っかけ取材をしていた共同通信の高橋さんです。高橋さんとはその後もお会いする機会があり、今回の視察にもご一緒することになりました。画像は私の友人が撮影し、いただいた個人所有の物です。

https://this.kiji.is/374471408253682785?c=39546741839462401

以下は、記事とは別の個人の感想です。
東日本大震災以降「FUKUSHIMA」はある意味世界の中心となった「福島第一原子力発電所」元ラジオ福島アナウンサーで、現在はフリーアナウンサーの大和田新さんに「原発に行かないか?」と声を掛けられた。普段の生活を送っている中で近づくことはない場所。
 私の中では原発の復旧現場は戦場の印象に等しい。車いすでは到底行くところではないし、行こうと思い付くことも考えたこともなかった。復旧の最中の場所でやれスロープがないだの、多目的トイレがないだの言うことも考えてもいない。そのため第一原発に行こうという考えなど皆無だった。「一体、なにが目的なんだろう?」と正直思った。ただ、同時に7年前を思い出していた。2011年12月私はある団体と警戒区域の中におり線量計が振り切れるほどの地域で避難者からの依頼を受け救済活動をしていた。あれから7年、警戒区域はどうなっているのだろうかと言う想いがよぎった。この事故のせいで多くの生命や生活が奪われ、未だに多くの人が苦しんでいること。7年前は勢いでボランティアをしていたが、正直なことを言うと震災後様々な支援をしてきたが、ここ数年は自分にできることはもうないと考えていた。

大和田アナウンサーはマイクを通して広く伝えることで震災と津波と原発事故について7年経っても精力的に活動している。忘れたいけれど忘れられない光景を振り返り、自分がもしいま支援ができるとしたら?それは一体なにか判断しようと言う思いが生まれ「いきます」と返事をした。
 
 居住制限区域の手前は復旧が進み、震災前よりもインフラの整備が進んでいた。本来であれば常磐道の整備も震災復旧・復興のためではなく、浜通りの人たちが南北に行き来しやすくし、産業や流通の拡大を図り、豊かな生活を送るために活用されるべきものであった。それが、震災後急ピッチで建設が進められた高速道路は、今や災害復旧に役立てられている。毎朝通勤途中で聴くラジオからの渋滞情報では、常磐道いわき広野インターで渋滞が発生し、原発の復旧に携る人が多いことをうかがい知ることができた。また、事故で通行止めになることもしばしばあり、被災地の工事関係者の気性の荒い運転も感じていた。被災地の事故と聴くたびに、数年前の女子学生が復興車輌にはねられ命を失ったことを思い出す。その女子学生のお母さんも交通事故で命を奪われ、彼女は交通安全をテーマとした作文コンクールで入賞するなど、交通事故防止の啓発に努めていた。「原発事故さえなかったら」と言う言葉を避難した人達からよく聞いた。そんな中、同じように原発事故さえなかったら、入りこむはずのないものが入りこんだことで、こうした事故や事件なども起きている現実を見聞きするたび、平和な福島が侵されて行く錯覚に陥ったこともある。原発事故で支援を受け人の温かさと感謝の念を感じる一方で、多くの負も入って来たと言ういろんな想いがよぎる。

 以前の警戒区域は居住制限区域という名前になっている。その居住制限区域に入ってすぐ、東電の牧場で飼われていたダチョウが無人の店舗のガラスに写ったじぶんの姿に求愛をしていたところが目に入った。この先は牛が集団でむかって来て焦った場所、ここでは牛が轢かれて死んでいた、ここの田んぼには津波の海水がもどる場所を失い、時に田んぼは風に煽られ海のように波立っていた。今にも生命が尽きるその瞬間を傍らで待ち侘びるカラス、栄養失調で後脚が伸び切っても必死で逃げる犬、国道6号を北上するにつれ、ここにはとても書けない悲惨な光景を目にした7年前の記憶が次々と甦る。途中、富岡養護学校や障害者の入所施設の看板を見て、あの日は卒業式だったこと。その後、障がい者の入所施設の職員は利用者と共に困難な避難を強いられたこと、当初は別の場所にあった同法人の施設に避難した、しかし、そこも避難することになった。避難所を転々とし、行き着いた先は田村郡だった。障がい者スポーツ指導者の連絡網で避難所でないため物質がないことなどがわかり、豊富な物質がある避難所から避難している施設まで物質を運んだ。皆不安そうな顔だった。事故前はソフトボールやフライングディスクなどを楽しんでいた笑顔が思い出された。そして、何より衝撃だったのは7年ぶりの帰宅困難者区域は建物が被災したままの姿だったことだ。「そうだ震災、原発事故はまだ続いているんだ」と思った。

 時代は東京2020の開催を2年後に控え、この機会に本務の障がい者スポーツの振興をしなければならないと言う思いと、国内外多くの方々が被災地を支援してくださるようになり私のすべきことはもうなくなったと思いから、こうした現実がまだ続いていると言うことを忘れようとしていたのだと思った。
 原発に入るまでの詳細なことはセキュリティの関係で差し控えるが、労働環境はだいぶ改善されたとの説明を受けたし、事故を起こした原子力発電所事態の復旧もかなり進んでいた。ただ、同時に一度壊れてしまったものや失ったものは二度と全く同じには戻らないと言うことも痛感した。だからと言って諦めて何もしないと言うことではなく、人は知能があり、思考し、感じ、挑戦する。何度も何度も。時には失敗を繰り返しながら。元に戻そうと言う強い意志、責任感のもとにつき動かす人の不屈の精神も垣間見た。それが障害を負ったいろんな人や自分の人生と重なった。

バスの中で待っている間、詳しい復旧の状況をお聞きした。その中で震災後私たちは電気を贅沢に使う暮しをしているのか気になりきいてみた。震災前よりは電力会社供給が落ちているとの回答だった。しかし、未だに東京電力の火力発電所の電気は首都圏へ送られていると聞き驚いた。私は東京電力で発電している電気は原子力発電所事故で使用されているとばかり思っていたからだ。原子力発電所事故の復旧で使用している電気は東北電力から供給されているとのことだった。 
 今回、現場を見て、話を聞き、物理的な復旧は確実に進んでいることも実感した。あとはこの事故で傷ついた人達の心の復興をどうするのか・・・。
このような深刻な事態、時が続く最中に自分のできることはなんなのか?それは福島人として、福島の今を正しく伝えることなのだろうと思った。大和田さんが多くの人を原発の復旧現場に人を入れるのは正しきことを正しく伝えて欲しいのだろうという思いを感じとった。
人の手伝いを必要とする状況であるにも関わらず、こうした機会を提供していただいたこと関係者の皆様に誠に感謝したい。

 最後に、少し話しは逸れるかもしれないが、震災と原発事故後、気になる事がある。それは復旧や復興、東京2020オリンピック・パラリンピックが復興五輪と位置づけられて多くの人が頑張って福島県を盛り上げようと勢いづいている中、日常生活の中でふと感じる20年以上前にタイムスリップしたかのような不便さ、障がいに対する差別的な感覚に見舞われることがある。もしも、その感覚が間違いでないのであれば、震災後私たちは視野が狭くなってないだろうか。自分以外の周りが見えなくてなっているのではないか?と言うことである。猪突猛進。つき進む中、足下の野の草花を踏み散らし、弱き者の声が聞こえなくなっていないか。町を歩けば、歩道はガタガタ、車いすの前輪が道路の溝に引っかかる。アスリートだった私でさえ車椅子で行きにくい。ようやくお目当ての飲食店についても車いす一人での利用はできないと何軒も入店拒否をされた。今年に入ってすでに5件だ。理由が車椅子はほかの客の迷惑になると言うことだった。今までにない経験だ。福島市は特に街中で車いすユーザーを見ない。歩道のブロックは曲り外れ、ベビーカーに乗った子どもにも衝撃は直に伝わっているだろう。
 こうしたことは震災や原発事故とは関係ないと思うかもしれない。でも、私はそうは思わない。震災前と震災後何を得て、何を失ったかもう一度考えて欲しいと思う。
 点字ブロックや車いすマークの駐車場もとりあえず設置しておけばいい。使わないなら、空いているなら停めてしまえ、そんな今の福島が果して正常と言えるのか。困った人が助けを求めた時、隣人を助けた福島魂を、震災前、震災直後にできていた思い遣りの気持ちを思い出し、もう一度考えて欲しい。一度失ったものは戻すことは難しい。しかし、容易に戻らないからこそしっかりとした新しいものを生み出し、より良い状態を生みだす事ができる。それが今なのかと感じている。
 随分とかけ離れている様におもうかもしれないが、今回、原子力発電所の復旧した状況を見て感じた一つの想いを感想として載せたいと思います。
そして、この感想は大和田HAにも別途お送りしております。
東京へ
昨年度より月2回は東京出張へ行っております。




この2年間で、新橋駅にエレベーターができたり、バリアフリー化が進み便利になっています。




昨日は仕事以外の目的で東京へ




休日に東京へ行ったのはかなり久しぶりでした。





三連休ということもあり、駅も大混雑




外国の方が多くて、海外にいる気分でした。




せっかく銀座まで行ったので




バレンタイン宝くじなるものを1組買ってきてみました。




当たりますように!
感謝
同じ年の同僚


共に働いて17年 2年前 夢を叶えるため新たな道へ



17年という歳月は、もはや同僚というだけでは表現できない存在となった



音もなく忍び寄る病の前に



前向きに ひたむきに 生きようと その命の灯を灯し続けようと




彼女の存在なくして、いまの福島県の障害者スポーツの発展はなかった




彼女との思い出の数々、笑顔、やさしさ、厳しさ、表情豊かな一つひとつが思い出され




彼女が作った数々の作品は、生涯の宝物として大切にしたい


志を継ぐ
先日、元楽天の星野仙一さんがすい臓がんにより旅立たれました。


そして、時同じく、日本の障がい者スポーツを牽引されてきたO先生も同じ病で旅立たれました。


O先生は、日本の障がい者スポーツの中枢にいて強化強化強化というご時世のなか、地域障がい者スポーツの振興を後押ししてくださっていました。


活躍するステージは違えど偉大なお二方に影響を受け、その志を継ぐ人がいるはず。
私もまたそう思った一人であります。



ガールズキャンプ in 西播磨
2018年 新年あけましておめでとうございます。


年末年始はゆっくりと過ごさせていただきました。




1月6−8日と兵庫県西はりまリハビリテーションセンターにおいて、日本車いすバスケットボール連盟女子委員会主催ガールズキャンプを開催しました。


この事業は、競技をはじめたはかりの超初心者を対象に、車いすバスケットボールの楽しさを伝えるものです。


今年も福島県のスポーツ環境充実に加え、女子車いすバスケットボールの支援に力を尽くす所存です。

終了
馳前文部科学大臣よりお電話をいただき「文部科学省スポーツ庁スポーツ審議会第2期基本計画部会」の委員に就任し、部会と審議会合同開催合わせて11回の会議に出席をしました。
平成32年からの第2期スポーツ基本計画、スポーツ庁長官の諮問機関の一員という大役を仰せつかりまして、慣れない雰囲気に緊張しながらも、しかしながら楽しく勉強になったこの9ヶ月間でした。



東京へ来るたびに違うルートを使用し、東京2020へ向けて、車椅子や障がい者のアクセシビリティをチェックしながら会議の会場までいくなど、常にもっとも重い障がいの人たちが、東京オリンピック・パラリンピックを見にいくとすると何が不便か考えながら移動しました。



会議期間中、新橋駅にエレベーターができたり、東京駅の新幹線改札のスロープが広くなったりとしています。が、まだまだ誰もがわかりやすく、移動しやすい環境ではないです。
世紀のイベントを機に、街も人も良くなるといいですね。


さあ、国のができたら、、次は福島県のですね。ポイントを絞って障がい者スポーツについてしっかりやっていきたいと思います。
鹿児島へ
鹿児島に来ております。




昨年より、早、4度目の鹿児島県です。





今回は、前回よりも珍事件が満載です。
地元のタクシー運転手のキャラが濃すぎてですね、毎日おもしろく過ごしています。


ちなみに今日のタクシー運転手は、高齢ドライバーで、ウィンカーがでっぱなし、車椅子を持ち上げられず^^;
若干、首が左右に振れてましたがだいじょうぶでしょうか。。。




楽しいことや真面目にあぶなかったものなど、いろいろあります。





昨日は、スポーツ庁の調査関係の仕事で、特別支援学校を視察しました。





本日は、車椅子バスケットボール愛好者で友人の勤務先(小学校)へ講演にまいりました。




2011年12月に福島県へボランティアに来てくれたので、こうした形でお礼ができてよかったです。




鹿児島は12度もあり暖かいです。福島を出るときは、最高気温がマイナス2度でした。



思わず「暑い」と口にし、鹿児島名物「しろくま」をいただきました。



鹿児島は、食事が美味しくて、肥えて帰りそうです。。。




では、明日からは別件で4日間がんばります。


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プロフ
HN:
Mash
性別:
女性
職業:
カリスマオフィサー
趣味:
photo(Canon EOS user)
自己紹介:
出身・在住 福島県
幼少はオルガン・書道などなど文化系で体も弱く運動が苦手でした。小学3年の担任の先生にテニス・卓球などいろ②教えてもらいスポーツ少女へ。小4でバスケに出会い高校までバスケをしていました。
平成2年6月車に飛ばされ車椅子になりましたが、車椅子になってもバスケットボールができることを知り競技の道へ。
1992年車いすバスケットボールを始めました。翌年合宿に招集され94年世界選手権デビュー。96年Atlantaパラリンピックで世界のレベルを知る。
1999年三上監督率いる女子車椅子バスケットボールチームは福島大学人類文化白石先生のメンタルトレーニング指導を受け、2000年シドニーパラリンピックでは目標どおりの銅メダルを獲得。
※白石豊先生は、福島大学教授。メンタルトレーニングの第一人者。ゾーン、ゴールデンエイジなどの言葉を生んだ方です。門下生には、日本人女性初のWNBAプレイヤー萩原美樹子氏、バンクバーオリンピックスピードスケートパシュート銀メダリスト田畑真紀選手、元日本ハムファイターズコーチ白井一幸氏、FIBAワールドカップ南アフリカ大会日本代表岡田武史監督、レッドブルエアレース年間総合チャンピオン室屋義秀選手など著名な方々を多数みてらっしゃいます。

経歴:
1992年3月車椅子バスケットボールを見学、以後半年以上ただ見学
1992年9月福島県身体障害者スポーツ協会主催の車椅バスケットボール教室にて三村一郎先生(長野県障害者スポーツ協会理事長)と出会い選手の道へ
1993年1月JWBF選手登録
1994年ゴールドカップストークマンデビル大会代表デビュー(7位)
1996年アトランタパラリンピック出場(5位)
1998年ゴールドカップシドニー(4位)
2000年シドニーパラリンピック(銅メダル)
2002年ゴールドカップ北九州(4位)
2004年アテネパラリンピック(5位)
2005年腰椎の疲労骨折により代表引退
2008年北京パラリンピック(4位)代表復帰
2010年ゴールドカップ バーミンガム代表(7位)
2011年ロンドンパラリンピックAOZ予選(3位)
2015年リオパラAOZ予選(3位)
2015年現役引退
職業:団体職員
(公財)福島県障がい者スポーツ協会

役職:
(一社)日本パラリンピアンズ協会理事
(一社)日本車いすバスケットボール連盟役員
福島県障がい者スポーツ指導者協議会事務局
福島県障がい者スポーツ支援ネットワーク理事
ふくしまchallenged sports club代表
趣味:美味しいものを食べ歩き、カメラ(Canon 7D user)
一番好きな曲:What A wonderful world.
家族:チャアコ,マーレ,バディ(dog's)メソ,ゴマ,アテ,モコ,アイナ,ニャークロ,グランディス,アバレンボウ,ギントキ,ロング,アメニ,ジンジャー,モウ(cat's),ゴンボ、クロ、シロクロ

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松本紀生著書
アラスカで出会った写真家松本さん、マッキンリーでカマクラ掘ってオーロラを撮り続けています。
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